御由緒
当神社は平安時代後期12世紀の初め、永久元年(1113)2月、右大臣源雅実公が奈良の春日大社から天児屋根命を勧請して、「火止津目大明神」と崇め奉ったことに始まります。御遷宮の時には具仁親王をはじめ、源氏(久我家)・藤原氏の一族が牛車三両、手輿数十丁を連ねて社参されたと旧記には伝えられています。
御鎮座当時には、桂川の西に地境方三十九間、本社、拝殿、神楽殿、御垣の御門に続いて東西に廻廊、南に一の鳥居、東に具平宮、一・二の鳥居の間には祭殿、御供殿、並びに久我公の成殿があり、高殿の東に遥拝所および御垣、また、御祭道の巽(南東)に惣門があり、祭殿に並んで神主の宅があったと伝えられています。神領として当地の近辺に五千坪の地があって田中には檜が生え、数十丈の藤がかかっていたと言われています。この事からも当時の広大さがしのばれます。
しかし、当地は鴨川、桂川の洪水の被害をたびたび受け、長承3年(1134)には桂川の大洪水により社領三百歩が渕となるほどでした。そこで、久寿元年(1154)「火止津目」の字を、水徳があるとして「菱妻」と改め現在に至っています。
この頃には、親王宣下の時に奉幣使が社参される例であったと言います。また、本社より巽の惣門を奏聞口と言い、辰の上刻(午前7時過ぎ)まで人の通行を禁じていました。これは南都より毎朝白い鹿が来てこの中を通り、卯の刻(午前6時頃)に南都に帰ったと言われたことによっています。
なお、当社を式内社の簀原神社ではないかとする学説もあります。
御祭神
天児屋根命
天の岩戸で祝詞を奏された神で、後に天孫降臨に具奉し、祭祀をつかさどっていた神。後世の中臣氏(藤原氏)の祖神でもあります。
御神徳
御祭神は、神に奉仕される神、文字の祖神、学問の神として広く崇められています。
藤原氏・久我家の氏神であるとともに、久我の里の発展と里人達の平和や幸福を守り給う鎮守の神として御神徳が高いです。